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04/12(Thu)
散る桜の書割
数日前のことではあるが、地元の劇団、劇団め組の公演に行って来た。 出演している女優の方のお一人とM飲み会の関係で少しばかりお話しすることが出来た由。「おう、いらっしぇい!」という彼女のBassの男より張りの良い声から、鯔背振りを感じ取ったがこれも舞台者の勘である。何かの役者に違いない。そう思っていた矢先、案の定地元の劇団の役者さんであり、間近に迫ったフライヤーを頂いた。
タイトルは鬼夜叉というもの。自分でも最近芥川の王朝作品に隠遁していたり、数ヶ月ぶりに京極堂達との再会を果たしたりしていることもあり迷わず公演を見に行った。粗筋としては下記の通り。 強烈な個性と権勢欲を持つ一人の男が将軍の座に就いた。 将軍は、武家棟梁の座に飽き足らず日本の頂点に立つ事を夢見た。 即ち、帝の座を奪う事である。 将軍には寵愛する美しい役者がいた。その名は鬼夜叉。 将軍の庇護のもと、その芸の道を極めつつあった鬼夜叉は、しかしある日、将軍の野望を知る。 鬼夜叉は、尊皇の志厚い忠臣楠木政成の血を引く一族の末裔であった。 愛する将軍か、はたまた自らの尊皇の血に従うか、鬼夜叉の心に苦悩の炎が燃えさかる・・・ 反朝廷への動きというものは朝廷という名ばかりにとどまらず、政(まつりごと)の本質とは如何にという懊悩の下、そして国家としての本質とは如何にという思想の下で民主主義国家黎明の時期にまで実は続いている。時代背景からして、この将軍とは足利氏であると推測できるのだがこの演劇では将軍の名を伏せていることから、一見史実に捉われることなく、時代の中での人間模様を描く、黒澤映画、乱を彷彿とさせるものがあったが楠木正成(パンフレット上の記載は誤字)の名が出てきた事から、足利の存在を容易に推測できてしまった。勤皇派という言葉だけで別に楠木の名を出さなくても良かったのにとも思われる。幕府という腕力と、朝廷という時代と共に胡乱な存在になっていくもの。その対立と葛藤は近代にまで続いている。この時代の後に、織田信長が朝廷を脅かし、足利義昭を追放。明智光秀は尊氏の二の舞になることを恐れこれに反乱。結果として刺し違える形となった。ここまでは時代において日本国家の象徴とは何かということが未だ曖昧であり、寧ろ強い者こそ、覇者こそが、国主として君臨して然りという考えが強かったのだが幕末になるとその思想は変わる。尊皇攘夷即ち海外からの大いなる腕力、ペリー来航ということから、国家そのものの侵略という恐怖がやってきたからだ。従い、覇者として君臨する野望と、錦旗に弓弾くものは逆賊という2重の試練の下薩長は時の公家であり実力者であった岩倉具視との奸計をして官軍とし、幕府を打破するに至った。坂本竜馬が殺されなければ時代は違っていたかもしれない。坂本の人生をかけての薩長連合は結局、腕力を整える為に使われ、明治政府の礎となったがその政府という政の近代組織さえ、二二六事件也で軍部という腕力に脅かされ、結局は米国という最大の夷敵に大戦という最大のダメージを受けることで、やっと民主主義国家としての歩み始めることが出来たと言えよう。戦国時代、信長に叫ばれた天下布武の思想とは一見覇者が力を持って国を制すように言われる恐怖政治と思われがちだが、結局のところ、戦乱のない世への到達には戦乱をして時代を切り開くしかないという、最終的な理想郷の絵という観点については古の時から変わらなかったのではないか。民主主義の幕開けを自国の力のみで遂げられなかったことは、この国において最も屈辱的なことかもしれない。ここまでは、この観劇を見る前、フライヤーを見て感想である。 主役の一人、鬼夜叉とは能楽を大成させたことで有名な観阿弥、世阿弥親子の世阿弥の幼名である。 会場は吉祥寺。演劇用のシアターであり、やや音楽には使用は厳しいか。 パンフレットにある配役を見、重要な役に女形が多いことが気に入った。俺自身、鬼夜叉、確かに世阿弥は男であったが、粗筋の書き方や流れから、女性の男役を予期していたのだが見事に本来の役と、そして、上皇母役などにも女形を用意してくれていた。これは有り難い。 能面のような顔という表現がある。即ち無表情・・・ということなのだろうが、この面(おもて)は演じる者の技術によって、面そのものが無表情であるからこそに、如何様にもその表情を表すということを醸し出している、そして素顔を隠すということと、これは演劇後半で特に演じられ、これこそ正にこの演劇の要点であるとも言える、面(おもて)というものにより面の外側に共鳴される人間の真実。 何故、世阿弥で無ければならなかったのか。旅芸人ならば時代こそ違え出雲の阿国なり、逢瀬の自然体は男と女であろうに。そこには、この時代、いや古からある浮世の奸計、そしてそれを企てる非情な心。理路整然とした振る舞いの下に光る醜い企て。大衆の面前で上皇正室と将軍の不義を疑い取り乱す上皇。それを侮蔑する正室。しかし、劇の終盤になり、上皇、将軍正室とも、「たれのお子を孕もうなど、それはどうでも良い話。」と吟遊する。その時に付けられている般若の面。 女性は護られる者。か弱き乙女・・。有史以前からの理。しかしながら有史においてから早くも、蘇妲己、クレオパトラ、西太后・・・歴史上で君主を狂わせ残虐の限りを尽くしてきたのも又女性。男に溺れる・・はある意味フェティシズムを匂わせるが、女に溺れる事は社会現象であり、文学の世界においてでさえ使われる表現。世阿弥の幼名とは関係ないが、そもそも夜叉とは石燕の百鬼夜行絵図にもあるとおり、正に悪鬼の存在、中国では女夜叉という物の怪も在り、美女のいでたちで男を誘い、近づくと変化しその肉を食らうとさえ言われている。 純愛というものの曇り、そして純愛と純真の曇りと憂い。そして時代はそれに遠慮することなく、男・・・・勤皇の隠密の志と既述の純愛の選択を強いていく。この部分は斬新な脚本。男故の純真さと忠義と家名を貫く漢(おとこ)との葛藤。将軍と鬼夜叉のお二人の演技力は見事。こうしたものは当然の事ながら演じる女性達の演技技術の高さによってより一層高められていった。本当に上手い劇団だ。プロであるからそうなのだろうが・・・。 物語の始めと終わりを上手く演じる、所謂狂言回しには高橋佐織氏、そして!平沢昭乃氏。見事に息の整った狂言回しであった。また、特筆すべきは上皇母、丹原新浩氏の演技である。尼の存在とは日本史において大きな影響力を発してきた。今川義元の奥にいた寿桂尼、母御前の人質と処刑により光秀は本能寺の変へと動き、秀吉亡き後淀殿と豊臣秀頼一派と、北政所一派との確執の大きな首謀者は大蔵卿の局だった。今となっては懐かしい千代も一豊の死後出家し見性院となり京都に隠居はしたものの、世継ぎ山内忠義には今の会社で言う「月報」を必ず送るように命じていた。山内家は一豊という律儀実直という将器に加え、私の英知があったからこそ興った。千代は最晩年、隠居してまでそれを強調し続け、月報に遅延や怠りがあった時に厳しく忠義を叱責したという。この千代の生涯の主張は、司馬の原作では最後まで力説されている。江戸時代生類哀れみの令といったたれが見ても馬鹿げているとしか思えないようなことを時の将軍綱吉を動かして実行させた母、桂昌院。 そうした、影のブレーンの役回りをこの丹原新浩氏はユーモアたっぷりに女形で見事に演じてくれた。俺が最後の出演者の紹介で一番に大きな拍手を送ったのは実は彼にだった。勿論、平沢氏にへも更に大きな拍手を送ったが。今後の劇団のスケジュールを見ると、幕末・会津藩に関してのものであり、時代的には俺にとっては正に垂涎の作品である。夏、また是非見に行きたい。 さて、本日は何を載せれば良いことやら・・。ということで、昔ゲームクリアに滅茶苦茶苦労したFFのクリップでも乗せておくこととする。 悪友の一人からメールが来た。ホストのバイトやらないかと。失っ礼 極まりない。四十路を前にそんな水商売は無理に決まっておろうに。 ということでおやすみ。
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